pinsanフィリピン・歩く写真館
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アイアム 美女・・・ハハハ
Iam Debbie
バレテン峠
古戦場を歩く
マニラから通じる国道五号線を北上すると190キロ付近から「目の前に1500メートル級の山が連なる。
カラバリン山脈である
ルソン島の最北端アパリまで五号線は通じているが、バレテン峠越は一番の難所。
1945年二月米軍は戦車を先頭に峠を越えようと押し寄せてきた。
バレテン峠を守っているのは第十師団(姫路 岡本保之中将)
五号線の険しいバレテン峠は天然の要塞のごとく米軍を容易に進めなかった。
攻撃する米軍は物量に物を言わせ周囲の山々はハゲ山になる
鉄と呼ばれた第十師団はバレテン峠の谷間45キロの道の峠に近い10キロにほどの
斜面に主陣地を築き、峠の頂上付近に司令部を置き、天王山・金剛山・笠置山・妙高山・妙義山
などと名付け兵を配置していた。
いずれの陣地からは国道五号線は見下ろす形になぅっていた。
道路上を進んでくる米軍のM4戦車は日本軍の75ミリ野砲に狙い撃ちにされ
兵が動けば重機関銃が撃ってくる。
米軍は山によじ登り日本軍の陣地を一つ一つ潰していくしかなかった。
6月19日米軍は峠を越え日本軍を追跡、殲滅せんと国号5号を機動力で進撃
日本軍は最後の砦キャンガンへと退却を続ける。
バレテン峠

バレテン峠の日本軍慰霊碑


バレテン峠頂上、今はダルトン峠と改名されている。

バレテン峠、南側頂上付近

北、サンタフェイへ下るバレテン峠頂上付近

マニラ方面のバレテン峠頂上付近



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古戦場を歩く
パンガシナン州サン・ニコラス マリコ小学校
マリコ村に通じる「サラサク峠」にて1945年2月ー5月 日本軍「撃」部隊と、米軍一個師団と攻防戦が続き
マリコ村は米軍の空爆で焼き払われた、マタ戦闘に巻き込まれ多くの住民が犠牲となる。
小学校を表敬訪問しました

職員室に伺い撮影許可を頂き 各クラス訪問
生徒数はは約250人前後とか、山の中の小学校でも大勢の生徒がいます

中庭の集会場コートは日本人遺族会のプレゼントだそうです

コンイチワ 6年生の教室です、生徒の皆さん落ち着きがあります

この娘さんも小学生、家庭に事情があり通学出来なかったのでしょうね
熱心に学んでいました。

5年生

4年生 ここも静か先生の日頃の教えが良いのでしょうね

何故か先生は女性ばかりです

低学年の教室に行くと五月蠅くなるハハハ

元気な生徒達


マニラから北に231キロ地点にマリコ村はあります
標高が約一千メートルの高原の村、気温も低いです
村はハウス栽培で高原野菜農家がほとんど、酪農家もありました。

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古戦場を歩く
マニラの北パンガシナン州サン・ニコラス マリコ村
サラサク峠
1945年2月、バレテン峠中央突破を試みた米軍だが日本軍の堅固な守りに手を焼き、西方のサラサク峠に一個師団を投入し山越えを図る。
サラサク峠はルソン平野で、手持ちの戦車180両の大半を破壊され歩兵部隊に改編された、戦車第二師団が急遽投入されて敵に応戦した部隊の名は「撃」と呼ばれていた部隊。
陣地はほとんどが地形の利を活しただけの急造陣地で、米軍の猛砲撃・爆撃でいずれは突破される運命にあった。
それでも二月の米軍攻撃開始以来、五月一九日までサラサク峠を守り切ったが応戦する弾薬・兵站がつき後方カガヤン河谷に撤退する。
マリコ村の入り口

マリコ村を歩いてみる、標高一三〇〇メートル級の山々が聳え、村は小さな盆地の中にある

村の入り口付近の丘に村人が日本軍の慰霊碑があると言うので行ってみた

碑には風月で風化され読み辛いがこう書かれていた
日本軍四六〇〇名・米軍三二〇〇名と多くの村人が犠牲となった。
1945年2月から6月にかけ。

聳え立つ周囲の山々



マリコ小学校に表敬訪問に伺います

村のお母さん、風貌がタガログ族とは違いますね 先住民の風貌だ

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